波乱の秋組も全員の問題が解決し、いよいよあとは千秋楽を迎えるのみとなりました。
第18話は、ここまで6話かけて物語を紡いできてくれた彼らの集大成。少ない話数で多くを乗り越えてきた彼らとも、今回で一旦お別れです。
芝居は全ての公演が大切ですが、その中で最も「役者の熱量」が乗るのは千秋楽。これはほぼ全ての舞台に共通して言えることだと思います。
1回1回の本番を経てさらに成長し、その演目での"最後"の芝居を体現する場。次がないからこそ全てをやり残さぬように、アドリブ含めたあらゆることが許容される唯一無二の時間。
公演中日まで苦悩し続けた者もいる秋組にとって、その時間はより特別なものになります。全てをぶつけるその舞台の行く末を、見届けて参りましょう。
俺の人生最大の後悔
「マイポートレイト…摂津万里」
思えばアニメ『A3!』の秋組はこのシーンから始まりました。
何かを決意する少年と、その出で立ちとは正反対で登場する摂津万里。どうしようもない彼が成長し、この表情に辿り着く過程を描く物語。その終着点が見えていたからこそ、過去の彼の愚行を甘んじて受け入れることができた。その側面は大きかったと思います。
秋組最終話の第18話にて、我々は遂に彼の「ポートレイト」に返ってきました。敗北を認め過ちを振り返り、成長した万里が臨む本気の一人芝居。彼を見る目も、この1ヶ月半で大きく変化したというものです。
何をやっても器用にこなし、全てのことを人並み以上にこなせてしまう才能の持ち主。それが摂津万里という男でした。改めて考えてみると、これは生きる上で凄まじい長所だと言えるでしょう。
本当に「あらゆること」にその才能が及ぶなら、万里は「世界一楽に生きられる人間」と言っても過言ではありません。普通なら努力に割かなければならない時間でより多くのものに触れられますし、触れたものはそのまま人生の肥やしにできるからです。
「なんでそんなに頑張ってんだ。
何もかもこんなに簡単なのに」
言葉通りに人生イージーモード。人は自分以外の人間を生きることはできない以上、自分が経験しない苦労を理解することも難しい。万里が必死になっている人を見下すようになったのも、無理はないことだと思います。
それ故に彼は「熱くなる」ことができなかった。
何かに向かって一生懸命になる必要がないから、その先にある充実感を体験することも敵いません。逆に言えば、それさえ受け入れてしまえば困ることは一切ないのです。
それでも万里は行動をすることをやめませんでした。それは彼が昔からその自分の人生に満足できず、その先を求めていたことを意味します。
周りを見ていれば、努力の先に何か大きな感動があることを感じる場面はあったのでしょう。自分もその感動を味わってみたい。満たされない毎日から解放されたい。そういった欲望に突き動かされて、万里はあらゆることを試していた。そう考えるのが自然だと思います。
しかし犯罪スレスレの行為まで範囲を拡大しても、自分を熱くさせてくれるものは見つからない。「何でもできる」はずなのに、他の誰もが持っているものが自分の手元には存在しない。それはいつしか万里の人生の大きなコンプレックスとなって、彼の心の闇となって行ったのです。
自分が"持っていない"という事実を覆い隠し、"持っている"方を誇示して他人を威嚇する。そうすることで自分の心に鎧を被せる。摂津万里はそんな少年として毎日を過ごしていました。
本気で熱くなること
「そんな時だった。
俺が兵頭十座の噂を聞いたのは」
そんな万里の前に突如として表れた存在。
喧嘩に自信があった自分をたったの一撃でKOした相手。それが兵頭十座でした。
万里が十座に勝てないのは当たり前のことです。万里は初めから「何でも"そこそこ"できる」だけであって、それは即座に極められる能力とは異なります。
だから何かを高いレベルで追求している相手に出会えば、摂津万里は必ず負ける。そして努力の仕方を知らない彼は、そのままでは絶対に同じ相手には勝つことはできない。
「人生初の敗北だ」
十座は生まれながらに恵まれ、そのせいで"そう生きるしかなかった"人間です。言うなれば17年かけて喧嘩の腕を磨いてきたプロのようなもの。十座にとってのその不幸は、奇しくも万里の才能を遥かに上回る強さを会得させてしまっていたのです。
「17年生きてきて、初めて俺は他人に負けた」
1つの敗北体験は、万里の心を強く動かしました。何が何でもあいつに勝ちたい。そう思える相手を見つけられたこと自体、彼の人生にとっては大きな成長だったと言えるでしょう。
ですが十座はそれを取り合ってはくれません。「野心のない奴とはやる価値もねぇ」と一蹴し、万里の再戦希望をことごとく退けます。たとえ殴られても殴り返すことさえせず、万里の劣情をさらに刺激し続けました。
思うに、この時点で万里が十座に抱いていた思いは「自分の負けを払拭したい」という自己保身的なものだったのでしょう。それは厳密に言えば「勝ちたい→強くなりたい」とは異なった価値観です。
完全に負けを認めて勝つための努力を積んでいたのではなく、ただ十座を屈服させることだけを目的に行動している。そうだとしたら何度やったところで結果は変わりません。相対する万里の態度から、十座はそれを感じ取っていたのだと思います。
だから万里は「喧嘩ではなく芝居で勝つ」と安易に方法を変えたし、MANKAIカンパニーに入ってからも十座を馬鹿にすることばかりを考えました。その上、稽古中も自分の方が上だと主張し続け、先を見据えていない短絡的で傲慢な態度を崩しませんでした。
「劇場を覗き込むと、そこにはオーディションを受けるあいつの姿があった」
それから起こったこと、彼が見たもの、思い知ったもの、受け入れたもの。その全ては過去の5話で語られてきた通りです。
「熱くなる」ことを勘違いし、誤った選択を取り続けた摂津万里はもういません。
今の彼は本当の意味で、自身の弱さと必要なものに向き合うことができています。
「俺の…"人生最大の後悔"は――」
座長 摂津万里が吐露する本当の「マイポートレイト」。
それは翌日へと熱意を繋げる、彼にとっての最後の禊。
公演に向けて1つとなった秋組の初回公演。「なんて素敵にピカレスク」の千秋楽が幕を開けます。
ふぞろいなバディから
「行くぞ…テメェら!」
座組の最終話は、彼らの積み重ねてきた本番が展開されるのがアニメ『A3!』の魅力。ここで初めて脚本の全容を知ることができるという点でも重要です。
開演と同時に展開されたのは、初めての稽古風景で十座が必死に練習していたのも印象的なあのシーン。たった1つの台詞の言い方だけで、十座が大きくレベルアップしていたのが伝わってくるのが良いですね。
芝居未経験でセンスもなかった彼が、初めての公演でここまで仕上げられたのは本当に驚き。それだけ十座が尋常ではない熱意と努力を積み重ねてきたのが分かります。万里と左京も同様に、ここまでのエピソードを踏まえた迫真の演技で一気に空気を創り上げました。
秋組の売りは何と言っても攻撃的なアクションシーン。夏組もアクロバティックを得意とする三角が動きを出してくれていましたが、武闘派揃いの秋組はまた方向性の違う喧嘩アクションで魅せてくれています。
何だかんだ言って、喧嘩アクションは実際に喧嘩(格闘技)経験者がやるとクオリティが違います。彼らの芝居には稽古だけでは決して会得できない、真実味が宿るものだからです。
アウトローな経験が豊富なメンバーだからこそ、観客をより大きく沸かせる演技ができるのです。どんな人生経験も芝居をする上では決して無駄になることはない。むしろ他人と違う経験を持っているほど、役者業において重要なことはないでしょう。
だから演劇は面白いのです。
物語の可能性は無限。どんな役だってどんな状況だって存在する。それ故にどんな人間でも「自分にしかできない役」に巡り合える可能性があり、それは時として役者本人の人生をさえも救うこともあります。
数々の経験を経て、芝居の息もピッタリ合わせられるようになった十座と万里。いがみ合うことしかできなかった彼らも、今では数奇な絆で結ばれた関係となりました。
「テメェ、張り切りすぎなんだよ…」
舞台裏で疲弊する2人の姿からは、千秋楽だからと力を入れすぎたことが伝わってきます。その熱量は芝居に反映されて、確実に観客の心を魅了したことでしょう。
「…客は喜んでた」
「ヘッ…まぁな」
生き方も考え方も真逆だけれど、心の奥底にはどこか通じるものを持っていた万里と十座。異なった理由で「熱くなれない」人生を送っていた2人の少年。
舞台上で曝け出したそれぞれの想いは、確実に彼らの関係を変容させて。ふぞろいなバディは息の合った2人として、観客の心にその姿を刻み込みました。
芝居を通して交流しなければ決してこうなることはなかっただろうそんな2人の姿は、確実に演劇の可能性を感じさせてくれるものだったと思っています。
自分の天井を壊す時
「俺は…もう戻りません!」
決死の告白を経てMANKAIカンパニー秋組の一員となった七尾太一は、ここに来て初めてしっかりと皆との芝居を見せてくれました。
千秋楽の直前、太一は因縁の相手であるGOD座の神木坂レニの決別を果たします。彼だけではレニの作る雰囲気に飲まれてしまっていたかもしれないところを、万里と十座のサポートを受けて何とか乗り越えらることができました。
太一はもう独りではありません。
清濁全てを受け入れて仲間として迎え入れてくれた、秋組の皆がそばにいてくれています。全ての闇に孤独に立ち向かう必要は、もうないのです。
できないこと、上手く行かないことはたくさんあるのは当然で。人はそれを受け入れた時、初めて"自分らしさ"を得ることができるものです。それは芝居において、自分らしく堂々とした演技を体現することに繋がります。
諦観と悲壮感。前日に鬱屈した気持ちを吐露した太一が見せたのは、憧れていた皇天馬をも唸らせる迫真の演技でした。
彼に与えられていたのは、病弱で誰かの頼りにならないと生きられない少年の役。昨日の経験を経たことで、役を演じる上で必要な深みを芝居に乗せられるようになったのでしょう。
表現力とは人生の積み重ねとほぼイコールですが、だからこそ1つの経験が劇的な変化をもたらすことも少なくありません。迷い込んだスランプから抜け出す時は、それまで溜め込んでいた分の成長が必ずセットで訪れます。
「今の俺っちにできる精一杯を…
会場の全員に見てもらうッス!」
七尾太一にとって、秋組での経験はそれに当たるのかもしれません。自分で自分の"天井"だと思っていたところは、往々にして薄っぺらく簡単に壊せるものだったりするものです。一連の事件は、彼が役者としての限界を突き破る契機となり得るものでした。
ここからの太一は、役者としてより強く大きく輝いていくことができるはず。いつの日か彼を捨て駒と切り捨てたレニに、「人生最大の後悔」をさせる役者になってほしい。そう心から願っています。