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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想 描かれた「光」の物語 この世界が辿り着いた答え

引用元:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』キービジュアル

闇の中から光を掴もうとする人たちの物語。

僕にとって『エヴァンゲリオン』とはそういう作品だった。

大元に持っている属性が「闇」であり、辿り着く結末も「闇」。ただしその世界に息づく人たちはどこか「光」を見ていて、あるかも分からない「光」のために、必死でもがき苦しみながら前に進んでいる。そんなイメージだった。

どんなに頑張っても報われないことはあるし、やったことの全てが実るわけではない。むしろ、何か行動を起こしても傷つくことの方が遥かに多く、"何もしないこと"が往々にして正解である。それでも、人は何かを目指して歩き続けなければならない。

世の中の不条理を物語の中で描いているような、常に陰鬱とした空気が漂っている作品だったと思う。

そんな『エヴァ』の最終作として世に出された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

一体どんな物語がどんな形で描かれ、何を持って”完結”を謳うのか。多くの人が楽しみにしていたし、注目していたはずだ。こうして筆を執っている僕も、もちろんその中の1人だ。

全てのネタバレを踏まないよう自衛しつつ、できるだけ早い段階で鑑賞する。そのミッションをやり終えて「終劇」の文字を見終えた時に、まず最初に思ったこと。

それは「この映画は最初から最後まで”光”であった」ということだった。

「Q」から地続きで描かれる"光"

思い返すと『新劇場版ヱヴァ』(※特に「序」「破」)は、テレビ版と比較すれば光に満ちた作品だったと思う。

努力は報われるし熱意は評価される。感情が正しく解釈されるし、見終わった後の多幸感やカタルシスも大きい。テレビ版にも同様の展開があるシーンも多いが、『ヱヴァ』ではそれらが「勝てる」前提で演出されていたように感じる。「破」の終盤などは絶望を煽る演出も多いものの、それに見合ったラストシーンがしっかりと用意されていた。

その道筋を完全に破壊してのけたのが「Q」だった。
「破」まででキャラクターたちが掴みかけていた「光」はどこへやら。徹頭徹尾何の救いもない「闇」だけが描かれ抜いた、色んな意味であり得ない作品が世に解き放たれてしまった印象だ。

この作品については今さら語るまでもないが、それでもついつい人と話したくなってしまう魅力(?)がある。

「何度話しても盛り上がる」この稀有な側面は、それだけ公開当時の衝撃度を物語っていると思う。「Q」と共に過ごしたこの8年間によって、『ヱヴァ』は『エヴァ』の一部足らしめたという解釈もできるだろう。

曰く付きとなった「Q」の続編である『シンエヴァ』でまず驚かされたのは、この作品が完全に「Q」から地続きの物語として描かれたことだ。まるで先週からの続きを見ているかのように、当たり前のように"最新作"は始まった。

「破」から「Q」の流れを考えるとまた大きく時間が飛ぶ可能性も十分にあり、そもそも「Q」が無かったことにされる可能性さえ否定できなかった。数ある選択肢の中で最も”普通”なものが選ばれたことに、逆に異様さを感じた人も多かったのではないだろうか。

主人公である碇シンジは、「破」までで勝ち取った全ての自己肯定感を消失。それも友人を死なせてしまった罪悪感なども付加された直後だ。シンジは最も深い「闇」に堕ちているところを、また無理矢理引っ張り出されることになった。

どうしてもポジティブには見られない展開のはずだが、『シンエヴァ』は何故かそうはならなかった。シンジの心情とは完全に別のところから、「光」への引き金をひいた者たちがいたからだ。

その声を聞いた時、劇場中の全員が目を見開いたと言っても過言ではないだろう。

外の世界に連れ出されたシンジを待っていたのは、もう出逢えないと思っていた、かつての友人たちだったのだから。

全てを「闇」から「光」へ

「Q」にて生存は絶望的と見られたシンジの同級生たちは、14年間の悲劇を全て乗り越えて”今”を生きていた。彼らは残された生物の生存可能区域にて第3村という村落を結成。慎ましくも懸命に世界を受け入れていたのだ。

『シンエヴァ』において、最も異質だったのが彼らの存在だったと思う。絶望的な世界において全く人生を悲観しておらず、今できることを屈託なく謳歌する。全てを諦めた結果という気配すらなく、未来への希望を信じているとしか思えない言動と行動を取る者ばかりだった。

理由は定かではないが、僕は彼らは見て「この人たちは(理由は分からないが)この世界で”光”に辿り着いたのだな」としか思えなかった。彼らからは今までの『エヴァンゲリオン』が抱えていたはずの「闇」が、微塵も感じられなかったからだ。

結果として『シンエヴァ』を取り巻く空気は、『エヴァ』で感じたことがないほど前向きな何かを孕んだものになった。それを守る者として一線を引いているアスカも、それに染まっていく綾波レイ(仮称)も含めて、ベースにあるのは常に「光」だったと思う。

その中で1人だけ、唯一「闇」を発し続ける者。それが碇シンジだった。

今まで『エヴァ』という作品の象徴であった鬱屈した少年は、最終作においていきなり”異物”として世界から突き放されてしまった。

「どうして…どうしてみんな僕に優しくするんだよ…!」

シンジが望んで止まなかったはずの人の温かさと優しさは、「闇」に覆われた彼には重すぎた。それでも「光」に影響されて、1歩ずつそこから立ち上がろうとする過程には、とにかく筆舌に尽くし難い感慨があった。

そしてアヤナミレイ(仮称)との別離でさえ悲劇的には描かれず、彼が「光」へ向かうために必要なものとして扱われた。『シンエヴァ』はベースを「光」にしたばかりか、全てのものを「闇」から「光」に向かわせるための物語となっていたように思う。

そのシンジの姿を持って、「あぁエヴァンゲリオンは本当にこれで終わるんだ」という実感が湧いたのは確かだった。ここまで作品の根幹を変容させてしまっている以上、それ以外の着地点はさすがに想像できなかった。

これは当然、シンジに限った話ではない。登場する全てのキャラクターの感情が分かりやすく語られてて、その点では努めて謎が残らないように配慮されていた(※世界観や設定についてはこの限りではないが、そこは逆に考察の余地が残されていてこそ『エヴァ』だと思う)

全ての登場人物に関して、「光」ある結末が導かれた。それが一般的に言うところの幸せではないとしても、本人だけは納得ができる(している)着地点を全員に用意してくれていた。

「結局あいつは何がしたかったんだよ」と言いたくなる部分がなく、細部まで見れば恐らく全員が”幸せ”に辿り着いている。これがテレビ版及び旧劇場版が描いたエンディングとの、最大にして最高の相違点だろう。

現実と虚構の狭間で

最後に触れておきたいのが、この作品のエンディングについてだ。

ネット上では「庵野が現実に帰れと言っている」のような意見をチラホラ目にするが、それはある側面では正であって、ある側面では誤であると僕は思っている。

個人的には『エヴァンゲリオン』は旧劇場版の時点から「現実と虚構に差異はない」ことを語っていると感じていて、最終的にはその境目が無くなることを意図した終わりに辿り着くのではないかという予想があった。

なので、僕にとっては『シンエヴァ』のラストはあまりにも自分の解釈と一致していて、それだけでも相当な納得感がある作品になったと言える。

そこから導き出されるメッセージは、あえて明言するなら「現実も虚構もどちらも人生に欠かせないものだから、どちらも大事にしなければならない」ではないだろうか。

それを酷く悪意的に描いたのが旧劇場版であり、逆に極めて善意的に描いたのが『シンエヴァ』であると思う。過去と現在、2つの作品で根源的に描いているものに差はないが、描かれ方が分かりやすく大別されているというイメージだ。

捉え方によっては「現実に帰れ」とも取れるし、「現実は素晴らしい」とも取れる。ただそれが虚構を通している以上、やはりその素晴らしさありきで我々の胸には届いてくる。

だからどれが正解とかではなく、「どれも正解」なのだと思う。

人間の感情は0か100かで語れないものなので、一元的な答えで物語を縛る必要はない。製作者が公言していない意図も作品の中には込められている以上、そこから何れを汲み取っても良いはずだ。

『エヴァンゲリオン』という作品のラストにおいて、そういう多様な人間の感情を否定せず、ある種の曖昧さを持った締め方をしてくれたことに、僕は最大級の感謝の念を込めたいと思う。そのおかげでこの作品は、まだまだこれから大きな広がりを見せて行くことだろうから。

全ての人を納得はさせられない

現在のネット上の評判を見るに、その創り方は多くの人に肯定的に受け入れられたと見て間違いないと思う。僕もその内の1人だし、『シンエヴァ』には本当に何の不満もなかった。考え得る完璧な終わらせ方の1つを、しっかりと選んでくれたと考えている。

ただ、その裏でどうしても納得できなかった人たちの感想も散見されるのも事実だ。これだけ作品の持っている性質が、180度完璧に様変わりしてしまったわけだ。元々の『エヴァ』への執着が強い人ほど、この「全てを良い感じにした」終わらせ方に納得できないのも無理はない気がする。

かく言う僕は『序』からこの作品に入り、その後テレビ版と旧劇場版を視聴して『Q』までをリアルタイムで追いかけた。『エヴァ』という歴史を持つ作品の中では十分に新参者の枠組みだし、ライトなファンでもあると思う。

だからそれより遥か前から『エヴァ』と付き合ってきた人たちの気持ちは、正直言って分からない。ただ今我々が目にしているのは、その中にも『シンエヴァ』に納得した人が数多くいるからこその結果のはずだ。

それを持って『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は多くの人を救った作品であると、1人のファンとしては声を大にして言いたいと思う。全ての人を納得させる作品は絶対に創れないからこそ、僕たちは自分の受け取ったものを大事にすべき。『シンエヴァ』は、改めてそう思わせてくれる作品でもあったのだから。

ありがとう。そしておめでとう。最初からではなかったけれど、13年半という歳月を『エヴァ』と共に過ごせたことを、今はとても嬉しく思っています。

この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が体現した「光」が、これからより多くの人に届くことを願って。1つの感想をここに残します。

さようなら全てのエヴァンゲリオン。これは「また会いましょう」のおまじない。

  • この記事を書いた人

はつ

『超感想エンタミア』運営者。男性。美少女よりイケメンを好み、最近は主に女性向け作品の感想執筆を行っている。キャラの心情読解を得意とし、1人1人に公平に寄り添った感想で人気を博す。その熱量は初見やアニメオリジナル作品においても発揮され、某アニメでは監督から感謝のツイートを受け取ったことも。

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